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成田山新勝寺

成田山新勝寺

☆成田山新勝寺☆
成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際に朱雀天皇が平将門の乱平定のため、939年
(天慶2年)、寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の
空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。
平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ケ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を
開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)
成田村一七軒党代表の名主が不動明王を背負って現在の場所に遷座し伽藍を建立、現在の成田市
並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句
に因み新勝寺と名付けられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、
江戸時代まで寂れ寺となっていた。江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の
「出開帳」(現代の語感でいえば「秘宝特別公開」)が行われた。1703年(元録16年)深川永代寺(富岡
八幡宮の別当寺で廃仏毀釈により廃寺となったが塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で
行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川
團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなども
あいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。尚、2007年11月28日、着工から
3年8ヶ月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m、桁行14m、梁行8m)が完成。

成田山

総門
開基1070年記念事業として2006年(平成18年)に竣工した。境内入口に建つ。総欅造り。高さ15m、桁行14.2m、梁行6.3m(設計:財団法人建築研究協会 施行:大林組、金剛組、日本木彫連盟江戸木彫刻)。2階部には不動明王や千手観音、大日如来など8体の木製仏像が奉安されている。

成田山

大本堂
仁王門をくぐり、石段を上りきった正面に建つ、当寺の中心となる堂。本尊不動明王像を安置する。
入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で規模は間口95.4m、奥行59.9m、棟高32.6m。1968年建立(設計:吉田五十八研究室 施行:大林組)。

成田山

釈迦堂
国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。
光明堂(これも旧本堂)と似た形式になるが、規模はこちらの方が一回り大きく、屋根正面に千鳥破風を付ける点も異なっている。堂の周囲には二十四孝と五百羅漢の浮彫が施されている。

成田山

額堂
国の重要文化財。大本堂の左裏の階段を上った先の平地に位置する。1861年(文久元年)に建てられた入母屋造、全面吹き出し(建具や壁を造らない)の堂で、絵馬を掲げるための建物である。

成田山

光明堂
国の重要文化財。額堂のさらに先に建つ入母屋造の仏堂で、1701年(元録14年)建立。
釈迦堂が本堂になる前の旧本堂である。

成田山

平和大塔
「平和の大塔」とも称する。境内最奥に建つ、鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔で、1984年の建立(設計監理:財団法人建築研究協会 施行:大林組)。外観は二重塔だが内部は5階建てである。塔の基壇部分にある1階は霊光殿と称し、大塔入口と写経道場のほか、絵馬などの文化財を展示している。2階は明王殿と称し、不動明王を中心とする五大明王の巨像を安置し、昭和曼茶羅、真言宗祖師伝などの絵馬で壮厳されている他、大塔各所を警備するコンソールが置かれている。
3階・4階はそれぞれ経蔵殿、法蔵殿と称し、信徒が奉納した不動明王の小像を多数安置している。5階は金剛殿と称し五智如来像を安置する。地下には各国の元首から寄せられた「平和へのメッセージ」を封入したタイムカプセルが、落慶した1984年、記念に埋められている。このタイムカプセルは2434年に再発掘・開封予定。

成田山

奥之院
成田山新勝寺の本尊である「不動明王」の本地仏「大日如来」が安置されている。通常、内部は公開されていないが大日如来の祭礼である成田祇園祭の期間中(その他の例外も有り)内部が一般に公開され参拝する事が出来る。

成田山

仁王門
国の重要文化財。参道から大本堂へ至る急な階段の途中に建つ。入母屋造の八脚門で、1830年(天保元年)の建立。

成田山

三重塔
国の重要文化財。大本堂の手前右手に建つ、1712年(正徳2年)建立の塔。高さ25mの中規模の塔だが、近くにある大本堂に比較して小さく見える。軒裏には垂木(軒を支える棒状の部材)を用いず、雲文を刻んだ板で軒を支える板軒とする。初層は各面の中央を扉とし、その両脇の柱間には十六羅漢の彫刻を施す。この他、柱、長押、貫などの部材に地紋彫りを施すなど、近世建築らしく装飾性豊かな塔である。

宗吾霊堂

宗吾霊堂

☆宗吾霊堂☆
宗吾霊堂と呼ばれ広く知られていますが、正しくは鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といいます。
境内は木々の緑につつまれ、春の花見に秋の紅葉にと年中人出が絶えません。
約10万平方メートルの広さに、年間参詣者は約250万人の人々が訪れる霊場です。
縁起は桓武天皇の時代に、征夷大将軍 坂上田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のため建立された真言宗豊山派の寺院です。
我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老により暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ヶ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。この時、住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。以来、惣五郎様と呼ばれるようになり、寛政3年(1791年)、堀田正順(まさなり)公は徳満院の院号と石塔一基を寄進しました。文化3年(1804年)には堀田正時(まさとき)公が惣五郎様の子孫に田高5石を供養田として与えました。

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宗吾霊堂大本堂
大正10年に8ヶ月の歳月を費やし、十間四面総欅造り総銅瓦葺現本堂を再建。ご本尊には、宗吾様の霊を祀っています。「宗吾霊堂」の名称で広く知られていますが正しくは
真言宗豊山派の鳴鐘山 医王院 東勝寺が管理する仏堂の名前です。

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宗吾様御廟
宗吾様は承応2年(1653年)旧暦8月3日、直訴の罪により公津ケ原刑場で磔刑、4人のお子様は打首の惨刑に処せられて、世のため人のために殉ぜられました。
この刑場跡に埋葬された宗吾様父子のお墓には、350年を経た今日でも多くの参詣者の方々の線香の煙が絶えません。

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奥之院
奥之院は、宗吾様の菩提に感謝の誠と御供養を捧げると共に、永きに亘り、支えて頂いた御信徒・御檀家の皆様方の恩に報い菩提を弔うための御堂として、宗吾霊350年祭記念事業において多くの皆様方のご寄進のもとに平成14年8月に建立されました。

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宗吾霊宝殿
昭和10年に開館。本尊宗吾様の遺品や関係文書、什器、寺宝、各時代の参考品、郷土出土品などが展示してあります。なかでも、惣五郎様の存在と持高を証明する名寄帳、宗吾様着用の袴と奥様ご使用の鏡、宗吾様とお子様4人の
法号を記した過去帳な貴重な品々を修蔵。350年祭を記念して小泉純一郎氏・長島茂雄氏などの各界の著名人の方々から寄贈された「義」の一文字を書いた色紙等が現在展示されております。

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薬師堂
屋根は入母屋造り銅版葺き、正面中央には千鳥破風を付けたお堂で、薬師瑠璃光如来をお祀りしています。明治43年(1910)供養堂が消失したとき翌年に仮供養堂として建てられ、大正15年に(1922)に現在の本堂が出来ると、五霊堂とは宗吾様と共に直訴を行い、その罪で佐倉領を追放となった五人の名主を祀るお堂で、近年五人の御霊が本堂に移されたのをうけ、五霊堂の名は薬師堂と改称されました。

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大本坊
昭和17年に建立された大本坊は、木造瓦葺で建坪は160坪です。300余畳の大広間があり、信徒講社の坊入り(お食事)・休憩・研修道場・宿泊等に使用されています。

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鐘楼堂
昭和27年宗吾霊300年祭記念事業として建立されました。梵鐘は仁王像を製作した香取正彦氏とその親の秀真氏との共作です。

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宗吾霊堂仁王門

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金色仁王尊
昭和53年に宗吾様の325年忌記念事業として完成しました。内部仁王尊は身の丈8尺8寸にして、鋳造・金箔仕上げの我が国で唯一の金色仁王尊です。

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慈眼閣
平成3年に大本堂屋根改修工事とともに建立された慈眼閣は、檀信徒皆様方の研修及び休憩所としてご利用頂いております。

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聖天堂
昭和62年11月に建立された聖天堂には東勝寺を創建した征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の持仏と伝えられる大聖 歓喜天尊像をお祀りしています。

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水子地蔵
仁王門手前にご安置されている、宗吾父子地蔵尊。宗吾様の4人の子供を思う気持ちをお地蔵様の姿に変えてお祀りしております。ご宝前の小さなお地蔵様は、水子供養や子供の安全を願うために奉納されたものです。